(以下のヴァイオラ・スポーリンの経歴は大野あきひこがヴァイオラ・スポーリン・エステート[www.violaspolin.org]の許可を得てアレサ・シルズのオリジナルを翻訳して掲載しているものです)

 

ヴァイオラ・スポーリン、1946(ヴァイオラ・スポーリン・エステートの好意により転載)無断転載禁止

 

 

ヴァイオラ・スポーリン(Viola Spolin)

1906117日~19941122日)

 

ヴァイオラ・スポーリンは女優、教育者、演出家、作家、そしてシアターゲームの考案者として知られる。シアターゲームは形式ばった演劇のルールを有機的に教えるために考案された、ゲームを使った俳優トレーニングシステムである。彼女の革新的な著作「即興術」はアメリカの演劇に変革をもたらし、演技の教え方に革命をもたらした。1963年にノースウェスタン大学から出版されて以来、この本は重要な演劇テキストであり続けている。彼女はシカゴのWPA(訳注:公共事業促進局)の演劇主任として、またハリウッドのヤング・アクターズ・カンパニーの主宰者として、またセカンドシティのワークショップ・ディレクターを務めながら、自身のメソッドを考案した。彼女の息子で演出家のポール・シルズはこのメソッドを広めた貢献者だが、彼はシアターゲームを使ってコンパス、プレイライツ・シアタークラブ、セカンドシティを共同設立し、ストーリーシアターを創案した。現代の即興演劇の流れは、スポーリンのメソッド、発見、著述から直接発展したものだ。

 

[哲学]

ヴァイオラ・スポーリンの即興シアターゲームは完成された俳優養成システムである。それぞれのゲームやエクササイズには、プレイヤーがグループで解決しなければならない課題がフォーカスとして含まれておりレッスンはプレイ(体験)を通して学ぶことができる。彼女はこう書いている:「誰でも演技が出来る。誰でも即興することができる。望めば誰でも舞台に立ち、存在感を身に着けることを学ぶことができる。私たちは経験と体験を通して学ぶのであって、誰も何も教えることなどない。・・・才能のあるなしはほとんど関係がない」。プレイヤーはフォーカスに集中することで今この瞬間に存在し、直感が働き、全身が目覚め、プレイすることができるようになる。この身体的状態は演劇的コミュニケーションに役立ち、また環境を探り新たな発見ができるように個人を解放する

 

純粋な自発性の瞬間に、文化的・心理的条件付けが崩れ去り、プレイヤーは未知のものを探求することができるようになる。シアターゲームでは小道具やセットの代わりに空間で作った物体を使うことで、演劇的な変容(トランスフォーメーション)の可能性が開かれる。スポーリンは変容を即興の核と呼んだ。そして文化や家庭という権威が他者を抑制するために、しばしば承認と否定を用いて、個人が体験する能力を制限すると考えた。彼女の評価方法ではグループ全体が非判断的プロセスに取り組むことで、生徒が自分自身で学ぶことを可能にする。スポーリンは自身の指導方法を非権威主義的、非言語的、そして非心理学的と呼んだ。

 

[誕生から高校時代](1906年~1925年)

スポーリンは1906年、ヴァイオラ・ミルズとしてシカゴのロシア系ユダヤ移民の家庭に生まれた。家族みんなで歌や室内ゲームを楽しむにぎやかな大家族の中で育ち、自分たちで台本を書いて演じたり即興を楽しんだりしていた。彼女は後年、子供たちが大人の見守りなしで何時間も遊ぶことを許され、近くの建設現場で危険でスリリングなゲームを考え出したり、フンボルト公園近くの空き家で遊んでいたと語った。

 

スポーリンは家族とのごっこ遊びや、シカゴで警察官をしていた父がオペラの警備の時に連れて行ってくれた舞台を観て演劇に興味を持った。高校でバスケットボールをしていた彼女は、時には男物の服を着たり、真っ赤な口紅をさしたり、ショートヘアの竹を割った様な性格の活発な女子高生だった。そして女友達同士で互いにニックネームで呼びあい(彼女は「スパーク」という似合いの愛称で呼ばれた)、古いT型フォードのトラックをシェアして、いろいろな所へ行って楽しい日々を過ごした。

 

[ネヴァ・ボイドの下での勉強](19231926

高校卒業後、彼女は先にネヴァ・ボイドの下で学んでいた姉のポーリンと一緒に勉強することにした。 ボイドは遊びの教育的および社会的利益理論の先駆者で、グループワークを使ってソーシャルワーカーを教えていた。ボイド女史のカリキュラムにはフォークダンス、ストーリーテリング、アート、工芸、テーブルゲーム、アメリカやヨーロッパ各地から集めた子供の伝承遊びが含まれていた。 ボイドの「レクリエーション・ゲームハンドブック」現在も教師にとって不可欠なテキストとなっている。

 

1923年から3年間、スポーリンはボイドがハルハウスで教えるレクリエーション・トレーニングスクールで学んだ。その後スクールはノースウェスタン大学に移り、ボイドはここで社会学の教授となる。ボイドの指導についてスポーリンは「彼女からもらったインスピレーションの影響を一日たりとも忘れたことはない」と語っている。

 

ネヴァ・ボイドは、ジェーン・アダムズのハルハウスをはじめとするセツルメントハウス(訳注:貧困地域の社会福祉施設)を中心に盛んになった、進歩的な教育運動に関わっていた。アダムズは以前ボイドが公園管理官を養成するために運営していた学校の理事を務め、学校を訪れて講演することもあった。アダムス同様ボイドは移民が既存の文化に溶け込めるよう、教育の民主主義的力を使うことを信じていた。 ボイドはまたこの目標が非競争的な遊びを使うことでも達成できると信じていた。「遊びの理論」というエッセイの中でボイドは次の様に書いている:「社会生活は破壊的なイデオロギー ~支配、憎悪、偏見、貪欲、不正直~に基づいて維持することはできない。社会はすべての人が良い生活ができなければ、一つにまとまることはできない。・・・美徳はダイナミックな成果であり、常に育て続けない限り完全に育ったものとはならない」

 

ボイドは子供たちが言語スキル、社交力、協力、さらに道徳を学ぶのにゲームが役立つことを知っていた。ゲームを楽しむには全員がルールに同意し、受け入れなければならないからだ。また遊ぶ行為は参加者を変える。彼女は次のように書いている:「遊びは他のどんな行動より社会の価値感と絡み合っている。遊びの精神は社会的適応性、倫理、精神的および感情的なコントロール、そして想像力を育てる」

 

スポーリンは後にインタビューで「私の人生にインスピレーションを与えた人はネヴァ・ボイドだけであり、これからもそうあり続けるでしょう」と語った。

 

[結婚、子供、そして演劇トレーニング](19271935

彼女の高校時代の恋人はウィルマー・シルバーバーグといい、親友チックの 兄弟だった。2人は卒業まもなく結婚した。2人の間に1927年にポールが、1929年にウィリアムが生まれた。その後ウィルマーは姓をシルズと変えたが、2人は1930年代のはじめに離婚した。

 

スポーリンはポールが生まれて働けなかったこの時期について、土曜日の夜に友人を招いてはかんたんな即興やゲームで友人をもてなしたと書いている。彼女は演劇史研究者のジェフリー・スウィートに、赤ん坊のポールにも見せるためにベッドにもたれかけさせたこと、セカンドシティのルーツはこの毎週の集まりにあるかもしれないと語った。

 

1931年から1935年にかけて、彼女はシカゴで舞台に立ちながらデポール大学の夜学で演劇を専攻した。またグッドマンシアターでシャーロット・コープニング(訳注:児童劇作家、指導者)に学んだ。また地元の劇団で舞台監督を務める他、1934年の万博ではハインズのPRショーで一日5回舞台監督を務めた。

 

1930年代半ばには、彼女はボイド女史から学んだグループワークを使って孤児院日や曜学校で、また「働く女性」向けに、先進的なレクリエーション・プログラムをすでに指導していた。

 

1935年スポーリンは幼い子供を家族に預けて、グループシアターで演技を勉強するためニューヨークに移る。彼女はルイス・レベレットに師事し、ステラ・アドラー、ジョン・ガーフィールド、モリス・カーノフスキーをはじめ劇団の著名なメンバーと知り合ったが、子供と一緒にいることを望んでほどなくシカゴに戻った。

 

[教育的プレイルーム](19341937)

スポーリンは離婚して働きながら子育てをする若い母親たちと、シェリダン通りの湖畔に大きな屋敷を借りて共同生活をしながら子供を育てた。

 

彼らはこの家を「教育的プレイルーム」と呼んだ。 ポール・シルズは、富裕層が家を失ったため、大恐慌の最中に家賃が安くなったことを記憶している。教育的プレイルームはオスカー・マイヤー(訳注:「オスカー・マイヤー」[食品加工会社]創業者)の家の隣にあり、シルズは長いコートとシルクハットの大男が毎日出かけて行くのを見たという。母親たちは子供の心配をせずに働けるようにお金をプールし、料理人を雇い、共同で子供を育てた。ポール・シルズによるとグループシアターがシカゴに来た時には、ジョン・ガーフィールドや他の著名なメンバーが訪ねてきという。

 

[WPA 時代] (19371941)

1937年までに彼女はWPAの一環としてレクリエーション指導員対象のトレーニング・キャンプで、ハルハウスで、そしてあらゆる派遣先に出向いてフォークダンスやクリエイティブ・ドラマティクス(訳注:演劇を使った情操教育)を教えていた。彼女は1937年に姉のポーリンに宛てた手紙でこう書いている:「クリエティブ・ドラマで私の評判が上がっています・・・。予想以上の結果を目の当たりにしてみんな大騒ぎしてる・・・。演技テクニックを教える手段としてジェスチャーをたくさん使いました。この何年かで優れた人々に学んだり日々の気づきの中で驚くほど多くのことを学んだことに気がついたの。人々が真の意味で生きるためにより創造的になれるよう、手助けする必要があると気づきました」

 

1939年にスポーリンはネヴァ・ボイドの推薦で、シカゴのWPAレクリエーション・プロジェクトの演劇主任になる。 1941年まで彼女は低所得地域の子供たちや、移住して間もない移民担当の仕事をした。彼女はボイドから学んだ遊びの利点を取り入れた演劇トレーニング法を確立する必要性を感じた。それは文化や言語の違いを越えたものである必要があった。伝統的な演劇のテクニックについて講義をしても、英語力の乏しい子供や大人には役に立たなかった。しかしそれがゲームのフォーカスになったとき、生徒は有機的に学び取ることができた。それは真の演劇的コミュニケーションに求められる、自発的な身体表現にあふれていた。

 

スポーリンはこう語った「ゲームは必要から生まれたのです。家で座って夢想していたわけではありません。(演出上の)問題が起こった時、ゲームを考えました。別の問題が起こったとき、また新しいゲームを考えたのです」。

 

自身の師ネヴァ・ボイドがそうしたように、スポーリンもワークショップをするためにハルハウスにスペースを借りた。時には通りに出て、生徒を集めなければならないこともあった。表で遊んでいる子供たちに声をかけて、中にある舞台で遊ぶように勧めた。やがて子供たちはスポーリンがシアターゲームを教えることも受け入れ始めた。末っ子のポール・シルズもハルハウスの生徒の一人だった

 

これらのグループから、最初の近代的な即興演劇による公演がいくつか生まれた。プレイヤーは観客からの提案を取り入れて即興でシーンや芝居を作った。

 

シカゴ・デイリー・ニュースのライターだったハワード・ヴィンセント・オブライエンは、ハル・ハウスでスポーリンが演出した1939年の公演「ハルステッド・ストリート」についてこう書いている:「民衆の演劇:この舞台を目にする人はほとんどいないだろう。耳にする批評家もいないだろう。・・・ しかしその重要性において、ブロードウェイの成功作をまとめて束にしたものと同等の価値がある。・・・キャストはイタリア人、ギリシャ人、メキシコ人、黒人など150人ほど・・・老若男女の混じったキャストだった。それは正確には芝居ではない。レビューに近いものだろう。しかし形式はどうでもいい。重要なのはそれが彼ら自身の手によって創案され、書かれそして演じられたということだ。」

 

1940年にはサンデータイムズ・マガジンが、子供たちのパフォーマンスについて次のような批評を書いている:「子供の集団レクリエーションにはユニークで様々な形式があるが、ハルハウスで演じられたものほどユニークなものはない。すべての子供たちが本来持っている創造的な能力を呼び覚ますことを目的としており、セリフもキューもリハーサルもない非正統的なドラマプログラムだ。若い演者たちは簡単なアイディアを与えられ、キャラクターを選んで即興芝居が始まる。それは楽しく、言葉を刺激し、「これ、あれ、あの」言った言葉を取り除く。『彼らはうまいかって?あの子たちは今までどんな舞台でも見たことのない、最高のアドリブ役者です』、演出したヴァイオラ・シルズ・スポーリンは言った。」

 

[戦時中とヤング・アクターズカンパニー](19421954

1940年スポーリンは大工で大道具職人でもある快活なエド・スポーリンと恋に落ちて結婚する。第二次世界大戦中、エドはアリューシャン列島の赤十字船に駐留した。ヴァイオラと10代の2人の息子はサンフランシスコに引っ越し、彼女は造船所で工員として働きながら、演劇ワークショップを行った。

.

終戦後、彼女とエドはロサンゼルスに引っ越す。彼らは自分たちでハリウッドヒルズに家を建てた。 1947年にエドは著名な建築家ルドルフ・シンドラーの大工として働いた。 

 

1948年にスポーリンはハリウッドで「ヤング・アクターズカンパニー」を設立する。これは子供のための演劇学校であり、プロのレパートリーシアターでもあった。生徒たちは彼女独特の非権威主義的で非言語的な教授法で教え込まれた。その間も彼女はシアターゲームを考え、生み出し続けた。

 

ヤング・アクターズカンパニーは、ハリウッド大通りの北、ラブレアにあるハリウッド・ウーマンズクラブの隣にあり、スポーリンの作り込んだ作品は熱心な支持者を集めた。ここでは5歳から19歳までの生徒を募集した。その中には、後にセカンドシティのプレイヤーとなるアラン・アーキンやポール・サンド(後年ポール・シルズの「ストーリーシアター」でトニー賞を受賞する)、そしてテレビや映画で活躍するジャッキー・ジョセフなどがいた。劇団は地元のテレビ局が撮影したこともあったが、残念ながらこれはほとんど保存されていない。

 

この間スポーリンはテレビが若年層に与える影響や、その他の教育的問題についてしばしば記事を書いたり寄稿したりしている。

 

どうやって多くの才能ある若い俳優を見つけたのかと尋ねられた時、彼女はそれは才能の問題ではない、求めていたのは自由な子供だと答えた。

 

「[プレイライツ・シアタークラブとコンパス](1950年代半ば)

1950年代半ばポール・シルズは母親のスポーリンにシカゴに戻り、プレイライツ・シアタークラブで「ジュノとペイコック」を演出してもらうように頼んだ。プレイライツは、シルズが学んでいたシカゴ大学の演劇クラブから発展したものだ。大学には演劇学科がなかったので、シルズは仲間の学生と自分たちの劇団を作ったのだ。1952年の冬、彼はアンサンブル作りを目指して、スポーリンが考案したシアターゲームを使ってワークショップを始めた。劇団にはエレイン・メイ、マイク・ニコルズ、エド・アズナー、 バーバラ・ハリス、ジョイス・ピーヴン、ユージン・トルゥーブニック、シェルドン・パティンキンらがいた。1953年、ハイドパークの中華料理店を改装してオープンしたプレイライツは、シルズが演出したブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」で旗揚げし、その後多くの古典、新作、オリジナル作品を上演した。これはシカゴのオフループ演劇運動(訳注:シカゴの商業地区を外れた場所での演劇活動)の始まりと考えられている。

 

1955年、プレイライツのプロデューサーであるデビッド・シェパードとシルズは、コンパスと言う名の即興レヴュースタイルの劇団を新たに作ろうとしていた。シェパードはスポーリンを招いてメンバー(ニコルズ、メイ、ハリス、ロジャー・ボウエン、アンドリュー・ダンカンなど)にワークショップを行った。彼らはシナリオを書いてそれを土台に即興を演じ、さらにショーの最後に短い即興を演じた。.現在これが近代即興演劇の始まりと考えられており、コンパスの革新的手法の大部分はスポーリンの教えに基づいていた。

 

[セカンドシティ](19591965

シルズは1959年に友人のハワード・アルクとプロデューサーのバーニー・サリンズと共に、知的な風刺レビューを上演するセカンド・シティを旗揚げし、劇団はたちまち人気を博した。彼らは即興でスケッチの題材を作り、短い即興でショーを締めた。この時も母親のメソッドで団員にワークショップをしてもらうため、シルズはスポーリンをシカゴに呼んでいる。スポーリンは後に、2週間の訪問の予定が7年の滞在になったと笑って語った。

 

すでにエドと別れていたスポーリンは、リンカーンホテルに定住してセカンドシティのワークショップ・ディレクターとなった。彼女はリチャード・シャール、エヴァリー・シュライバー、デル・クロース、ミーナ・コルブ、ハミルトン・キャンプ他大勢のキャストを指導した。またこの時期彼女は革新的なトランスフォーメーションのエクササイズを考え出し、探究を続けた。さらに青少年クラスを含む一般向けワークショップも指導した。

 

この間、セカンドシティのメンバーとのワークに触発されたスポーリンはそれまでの仕事をまとめ、後に「即興術」という本となる原稿を書き始める。

 

[即興術](1963

1963年ノースウェスタン大学から「即興術」が出版された。演劇界と教育界はスポーリンのシアターゲームと画期的な教授法を熱意と興奮をもって迎えた。そして全国に無数の即興劇団が生まれていった。

 

フィルム・クウォータリー誌は「エクササイズは不自然さを防ぐ工夫であり、自発性に存在感を与えるために作られた構造である」と書いている。

 

またエリック・ベントレー(訳注:劇作家、劇評家)は次のように書いている:「シラーは我々は遊びを通して全人格的人間になると、ずっと昔に書いている。またシェクスピアは『男も女すべて役者(プレーヤー)にすぎない』という言葉を書いている。私はヴィオラ・スポーリンの理論と実践が、そのような真実を美しく例示するものと考えたい。」

 

現在この本は第三版が出ており、これには初版の後に生まれた多くの演劇的発見が含まれている。

 

[ゲームシアターとストーリーシアター](1965~1967 

ポール・シルズはいよいよ母親のゲームが生み出す、演劇の可能性を探求する時期が来たと感じた。彼はセカンドシティでこれを試すことを考えたが、結局成功したフォーマットを変えることはしたくはなかった。そして彼はスポーリンと、そしてリンカンパークでニーヴァ・ボイドの伝承ゲームを継承していたアーチスト集団と共にゲームシアターを設立するために劇団を去った。ベトナム戦争と公民権運動の最中、誰もが新たな創造的取り組みを探し求めていた時だった。スポーリンはその後もセカンドシティでワークショップ・ディレクターを務め、これはシルズが新たな試みに踏み出したのを機にサーリンズとパティンキンに退任を促されるまで続けた。

 

ゲームシアターの公演では観客が、メンバーと一緒にシアターゲームに参加して遊ぶように促された。これは観客も仲間のプレイヤーであるというスポーリンの考えを真に表現していた。スポーリンの夜間公演はしばしば活気に満ちたものでを、それはパフォーマンス形態としてまた教育ツールとしてのシアターゲームのさらなる探求を可能にした。劇団はノースサイド協同組合、ペアレンツスクール、平和を目指す女性たちなどのコミュニティグループの中心として機能した。

 

シルズは1967年にゲームシアターを使った寓話の公演を試みた。これがストーリーシアターの誕生につながり、その後彼は生涯この演劇形態を追求することになる。1970年、ストーリーシアターのブロードウェイ公演は好評を博し、これにはポール・サンド、ヴァレリー・ハーパー、リチャード・シャール、リチャード・リバーティニ、メリンダ・ディロン、ハミルトン・キャンプ、ピーター・ボネアズ、メアリ-・フランが出演した。

 

1970年代、スポーリンは数多くのストーリーシアターのコンサルタントを務めた。スポーリンのストーリーシアターのためのシアターゲームは、「ポール・シルズのストーリーシアター:四つの物語」としてアプローズ社から出版された。

 

シカゴ演劇史の話題の中でしばしば見落とされてきたが、ゲームシアターはスポーリンとシルズに関して非常に創造的な時代を表している。喧噪の時代のシカゴの人々に、コミュニティスペースとして重要な役割を担っていたのだ。

 

[出版とワークショップ](1970年代、80年代)

1966年スポーリンはロスに戻り、1970年代から80年代にかけてサラローレンス、ブランダイス、USCなどの大学で、また教育や演劇会議、全国の公立学校、エサレン研究所、アメリカン・コンサバトリーシアター、シルズ&カンパニー、ドラマセラピー・プログラム、メンタルヘルス施設および刑務所などで、多くのワークショップを指導した。また、「ローダ」や「フレンズ・アンド・ラバーズ」などのテレビ番組のキャストにワークショップを行った。

 

1970年、彼女はポール・マザースキー監督ドナルド・サザーランド主演の映画「不思議の国のアレックス」に出演した。注目すべきはフェリーニ風の夢の場面で、彼女がチュチュを着て白馬に乗ったことだ。またこの映画の前にはネルソン・オルグレン、デル・クロース、アンソニー・ホランド、セヴァーン・ダーデンが主演した「ゴールドスタイン」(1964)というインデペンデント映画にも出演している。

 

1975年スポーリンは自身のメソッドをさらに深く教えるために、ロスアンゼルスにスポーリンセンターを設立した。

 

その同じ年、他人が自分のゲームをそのままカードにして売り出すという盗作の被害にあったスポーリンは、自身で"Theater Game File"(シアターゲームファイル)を売り出す。彼女は盗作した会社を相手に訴訟を起こし、自作の版の出版が認められた。

 

1980年代の初めまでにシルズもロスに移り、長年活動を共にしてきた仲間と「シルズ&Co」という団体を作った。彼らはスポーリンのシアターゲームを公演で探求するために劇場も建てた。団体はセヴァーン・ダーデン、ヴァレリー・ハーパー、ミーナ・コルブ、ハミルトン・キャンプ、ジョン・ブレント、ルイス・アークウェット、リチャード・シャール、ギャリー・グッドロウ、リチャード・リバーティニ、エヴァリー・シュライバーなど、セカンドシティとストーリーシアターのベテランメンバーで構成され、「ジブリッシュ通訳」、「アニマルイメージ」、「関係のトランスフォーメーション」などのシアターゲームで観客を喜ばせた。彼らがロスに拠点を置いていた間、スポーリンは団員にワークショップを指導した。さらにポール・シルズが仲間数人と共にニューヨークに拠点を移してからは、スポーリンがロスの団体を統括し、残った数人のオリジナルメンバーと自身のワークショップメンバーと共にしばらくの間公演を打った。このうちの何人かは現在もスポーリン・プレイヤーズとして一緒に公演を行っている。

 

1985年には"Theater Games for Rehearsal:A Director's Handbook"(リハーサルのためのシアターゲーム:演出家の手引き)を出版。これは映画監督ロブ・ライナーの序文を添えて近年重版を重ねている。ライナーは「スタンド・バイ・ミー」の撮影時など、キャリアを通してスポーリンのゲームを活用してきた。2010年彼は次のように書いている:「それは演技の集中講座の様なものだったんだ。子供たちは演技経験もほとんどなくて初対面だったけど、スポーリンのゲームのおかげで4人はまとまりのある集団になった。そしてまるで幼なじみの様になった。映画がうまくいったのほとんどそのおかげだよ」

 

続いてスポーリンは1986年に"Theater Gams for the Classromm"(学校で使えるシアターゲーム)を出版した。これは教育現場で子供たちとゲームをするためのガイドで、これは彼女の著作の中で最も高い販売部数を誇っている。

 

最後の本となった"Theater Games for the Lone Actor"(一人でできるシアターゲーム)は彼女の死後に出版された。彼女の著作はすべてノースウェスタン大学出版部から入手可能である。

 

90年代初頭に脳梗塞を患った後、スポーリンはもはや教えることができなくなた。彼女は晩年をハリウッドヒルズの自宅で長年連れ添った献身的な夫、コルマス・グリーンと共に過ごした。

 

1994年に死去して以来、スポーリンが残した遺産の影響は飛躍的に広がっている。即興演劇ムーブメントは隆盛を迎え、シアターゲームは世界中の学校や大学で俳優訓練のために使われ続け、遊びや子供主導の教育法の必要性の認識が教育分野で高まる中、スポーリンの画期的な仕事は、幅広いセラピーの応用分野で新たな実践家や支持者を生み出し続けている。 彼女が灯した火は世界を変えた。

 

 

著者Aretha Sills

ヴァイオラ・スポーリン・エステートwww.violaspolin.org

 

( ヴァイオラ・スポーリン・エステートのサイトでは写真も数多く掲載されています:

https://www.violaspolin.org/bio

 

(この文章のテキストおよび画像を含むいかなる部分も、ヴァイオラ・スポーリン・エステートから事前に書面による許可を得ることなしに、いかなる方法によっても転載することを禁じます

 

―――――――――――――